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第15回文化講演会&コンサート

日時:2019年10月19日(土) 13:30 開演
場所:「海の見えるホール」(東海道線大磯駅前 聖ステパノ学園内)       
   第一部  13:40~15:10
演題:「浅野総一郎と大磯」 その男はかりしれず
講師:新田純子氏、(日本ペンクラブ会員)
立教大学卒業、第26回中央公論女流文学賞受賞、 著書に「その男はかりしれず 浅野総一郎伝」、「万葉人の遺言」 など多数。
今回は明治~昭和にかけて経済界をリードした浅野財閥の総師・浅野総一郎の伝記(右の写真)を数年前に出版された新田純子氏にお願いいたしましてお話を伺いました。
  第二部 15:25~15:55
「歌と語りのコンサート」
出演:百合道子(ソプラノ)、
添田千恵子(ピアノ)
主催:明治大学大磯駿台会
後援:大磯町

【第一部】 

新田純子氏の講演要旨

       浅野総一郎 嘉永元年(1848)~昭和5年(1930)

本日は大磯に非常に縁の深い浅野総一郎について、また「日本の資本主義の父」と言われた 渋沢栄一と浅野総一郎との交流に関して、その共通点や緊密な接点などをご紹介さていただきたいと思います。

浅野総一郎と聞けば「京浜工業地帯の父」。日本asanosouichiro鋼管浅野ドック、浅野セメント、浅野学園の設立、磐城炭鉱開発、沖電気の設立など浅野の偉業は数え切れません。晩年はこの大磯で過ごし、82歳と6ヶ月で人生を終えました。

 渋沢栄一についても皆様よくご存知のことと思いますが、1万円札の肖像画に選ばれ、2021年からの大河ドラマの主人公ともなる人物でお札の神様のような方ですね。 500社もの会社の創設に関与し、日本の近代化を語るうえで大切な人物です。この渋沢栄一の盟友として55年間、さまざまな企業を具体的に引っ張っていった実力者が浅野総一郎です。 一方、金融王と言われ大磯に住んだ安田善次郎と浅野は強い信頼関係で結ばれ、浅野、渋沢、安田の3人は今日、芙蓉グループと呼ばれる多くの企業体の創設と経営に邁進していました。 (上の写真は浅野総一郎)

聖ステパノ学園と澤田美喜

ところで、今日は澤田美喜さんと深いご縁のある聖ステパノ学園講堂に来ることが出来まして、非常に感激しております。と申しますのも大磯での澤田美喜さんの活動について、私が初めてお聞きしたのは戦後大磯に暮らしておられた浅野家の方からでした。澤田さんは岩崎家のお孫さんに当たりますが、クリスチャンとなり私財を投げうって講演などの積極的な活動を通して資金を集め、多くの子供たちを社会に送り出されました。新田純子
(写真は講演中の新田純子氏)

「母は、澤田さんのおばさまをご尊敬申し上げていました」、「サンダースホームには小生もよく遊びに行きました」などと浅野家の方から今もお聞きしており、歌手の安田祥子(さちこ)さん(澤田正雄氏奥様)やその妹の由紀さおりさんのこともふくめて、戦後大磯で暮らした当時いろいろのお付き合いもあり、戦後の物の無い時代であっても心ゆたかに過ごすことが出来たのです。

また、明治、大正の政財界で名をなした池田成彬(しげあき)氏や井上準之助氏、安田善次郎氏のお孫さんの世代が、戦後大磯に住み大磯小学校に通われていて、同窓生同志として皆様親しくされておられました。 大磯は明治18年に健康増進のための海水浴場として開け、明治20年頃から保養のために多くの要人が次々と別荘を構え、また住まいとしても最高の景勝の地でまさにパワースポットと呼べます。

浅野財閥創始者

浅野総一郎は当時の名のある実業家としては若手の方で、安田善次郎氏や大倉喜七郎氏、渋沢栄一氏とは8歳から10歳程度年下でしたが、常にこうした先輩とともに日本の産業界の最先端を走り続けました。最盛期には直系のみでも30社余、そして関連会社をも含めれば70社以上となり、「浅野財閥」と呼ばれた所以でもあります。

浅野総一郎は大磯別荘を、当初現在の安田邸の所に構えていましたが、明治末頃に安田善次郎に譲り、自分はもう少し奥の高麗山の麓に家を構えました。安田さんは大正6年に寿楽庵を新築、心から浅野を信頼していました。現在もなお、地元の方の心にこのような浅野の記憶が残っていることこそが歴史だと思います。 安田翁の秘書の回顧録によると、大正10年9月28日に安田翁は暴漢に刺され、最後の時に一番に駆け付けたのは浅野総一郎でした。「杖を失った座頭のようだ。これからは、苦難の道を一人で歩いていかねばならない」と述べており、その言葉は、出身地の富山の駅前の安田記念の金属版に刻まれています。

よく言われるのが、浅野がエンジン、安田が燃料です。そして渋沢栄一の統率力が加わり大きな推進力となっていました。三人で京浜工業地帯の埋立事業を行い、現在もその伝統を脈々と伝える東亜建設工業(株)は数ある浅野創設の会社の一つですが、その社章は「三羽鶴」です。この三羽は、浅野・安田・渋沢の三羽の鶴を象徴しております。

大磯と渋沢栄一 (明治23年当時)

ところで、渋沢栄一の大磯にかかわる記述を一つご紹介させていただきます。渋沢氏は筆まめな方で日々の出来事を日誌に書き残していますが、次の記録があります。 「小旅行として明治23年(1890)1月7日、是日栄一、東京を発し大磯の涛竜館(とうりゅうかん)に赴き、2月1日帰京す」とあります。 要人たちの保養地としての大磯ブームのなか、渋沢栄一はすでに明治23年正月から1ヶ月弱、大磯の涛龍館なる所に滞在しておりました。 sibusawaeiichi

祷龍館が大磯の海辺のどこにあったかなどは地元の方はご存知かもしれませんね。 この滞在中に渋沢は、当時大磯に居て療養中であった新島襄を見舞っています。
新島襄は同志社大学設立を目前に、後のことを渋沢に託してこの年1月23日、志半ばでたおれたのです。46歳11ヶ月の若さでした。後々、渋沢が子女の教育にもかかわっていくのには、この大磯での新島襄との出会いが影響したのかもしれません。 (右の写真は渋沢栄一)

同じ明治23年頃の浅野はいまや大手電信機器会社となった沖電気の前身の明工舎を応援していました。総一郎の妻・浅野サクと沖電気創始者・沖牙太郎の妻のタケは叔母と姪の関係で、つまり、沖電気の根幹は浅野家との関りから始まっています。この他にも浅野総一郎は渋沢栄一や大倉喜八郎と共に帝国ホテルの大株主の一人ともなり、東京ガスやサッポロビール、磐城炭鉱や海運や石油事業をも取り仕切っていました。

浅野総一郎の「大回心」

 明治4年(1871)、渋沢栄一も浅野も東京に居たのですが、渋沢は国立第一銀行の頭取で政界・財界の最高の人物。一方浅野は、「東京はお茶の水の橋のたもとで、一杯一銭の水売りをしていた男」でした。しかし、二人の間には幾つもの共通点があることに気づかれると思います。 配布いたしました年譜にありますように、浅野は越中の前田藩のお膝元、現在の富山県氷見市薮田という海辺の町で、明治維新の20年前に代々、村医者を勤める家の長男として誕生し、将来は医者となることを期待されていました。

しかし、浅野家の家督は年の離れた姉夫婦が継ぐこととなり、6歳の時、町医者の家に養子に出されます。そして、養父から厳しく医者になるための勉強を強いられます。しかし、この頃から総一郎は大きくなったら「大海原に千石船を走らせる大商人」となる夢を持っていました。 剣道と相撲はめっぽう強く、いわゆる腕白小僧。養父の勧めた必読書「傷寒論」をアッと言う間に、全て完璧に暗記してしまいました。理解力と記憶力は抜群だったのです。そして13歳で、養父の代診を勤めるようになります。 ところが、ここで大きな運命の転換が訪れます。

ある日、友達の親が大変だと言うので駆け付けると、目の前で苦しみながら死んでしまったのです。当時、コロリと呼ばれるコレラの大流行で、多くの人たちが命を失いました。 コロリは当時の医療ではどうしようもありません。自分は医者にはならない!と総一郎は養家を離れ、少年事業家として身を立てる決心をしたのです。ここから、浅野自身の人生が始まります。これが、浅野の医者から実業家への「大回心」です。この決心は一生変わらず、生涯にわたり実業家一筋。猪突猛進といったところです。

渋沢栄一の「大回心

ここで、少し渋沢栄一の誕生からを追ってみたいと思います。世の中の変化や価値観に合わせて、生き方も180度もかわります。 渋沢栄一は武蔵の国、血洗い村の豪農の跡取り。親戚に、四書五経のなかの論語を座右の書にするなど学問好きで書の才能に恵まれた人がいました。栄一も6歳頃から漢籍を学び、学問好きで書が得意。家は豪農であり、養蚕や藍玉の製造など米作以外の取引にも詳しくなっていたようです。

そして、世の中を知ろうと11歳の頃から、江戸に出てそこで尊王攘夷の志士たちとの交流が生まれます。 主流派と対立していた水戸派の幕府役人であった平岡円四郎という人物と懇意になり、平岡を通して紹介されたのが、当時主流派に破れた水戸派の徳川慶喜でした。  同じ幕府内で対抗することで、片方が討幕派と結びつくことは時にはあります。幕府派と討幕派は命を賭けた戦いを繰り広げ、平岡円四郎も切り殺されてしまいました。しかし渋沢は元来頭の切れる人ですから、徳川慶喜の側近として取り立てられます。

渋沢と浅野の共時性 その一 (フランス)

元治元年(1864)夏以降、渋沢は徳川慶喜について京都御所に詰めていました。 世の中は幕府派と討幕派、またお互いの中でも激しい闘争があり、江戸でも京都でも切ったり切られたりの世相でした。平岡円四郎も水戸派の一味に暗殺されてしまいます。 このような時代、越中では、新時代の風としては尊王攘夷運動そのものより、商業などが盛んな土地柄でした。

不思議なことに、同じ年の元治元年、越中の海辺の片田舎にいたはずの15歳の浅野少年もまた京都御所の向かいにある東本願寺の宿房に滞在していました。 「共時性の不思議」と私は呼びたいのですが、15歳の少年事業家として、世間というものを是非自分の目で見みたいものだと京都に1ケ月近く立ち寄っていたのです。旅費は自分で氷見針を行商しながらの旅でした。

慶応2年(1866)暮れ、あろうことか徳川慶喜自身が将軍となり、渋沢は幕府の要員になってしまったのです。これが渋沢栄一の「大回心」です。 その後慶応3年頃、慶喜の弟の武昭がフランスのパリの万国博覧会へ行くことが決まったとき、渋沢は徳川慶喜の推薦で使節団の随員として日本を離れることになります。もし、渋沢栄一も日本にいればどうなったことでしょう。 渋沢はこのフランス万博見聞で進んだ西欧の文化、銀行制度などを視察し、特に西欧の「合本制度」というもの、つまり現在の株式会社制度に興味を持ち、非常に感化されて帰国しました。日本は明治政府の時代になったばかりの明治2年でした。

渋沢と浅野の共時性 その二 (合本主義と産物会社)

加藤景お手元の資料に、「浅野総一郎はどんな人物か」のところに「日本にはじめて会社組織を創った男」とあります。 慶応3年(1867)、越中の総一郎が手掛けたのが、「産物会社」というものでした。 これは、出資者をつのり事業を起こし、利益が出れば、配当を出すというシステムで、現代でいう株式会社と同じシステムの商売の仕方です。期せずして同じ時期に、縁もゆかりもなかった渋沢と浅野は「会社」という経済組織の在り方を渋沢の方はフランスで学び、浅野は日本の越中で実行していました。 (右の写真は講師の新田純子氏とご主人)

何故、越中の片田舎でそのような共時性が起きていたのでしょうか。当時、加賀藩と富山藩は進んだ考え方で外国のさまざまなことを日本に取り入れており、特にフランスの最新鋭の経済システムを取り入れ、加賀藩自身が「加賀藩の産物会社」なるものを創り、情報に敏感であった総一郎がそれを見倣ったからです。 総一郎の特徴の一つを上げるとすると、何をするにも人が驚く規模でなければ満足しないということ。総一郎の夢は、「大海原に千石船を走らせる大商人」となることで、こうして明治4年春、大きな借金を残して上京。

一方の渋沢栄一は明治2年帰国。すぐに静岡に隠遁していた徳川慶喜を尋ね、まず静岡に商工会議所をつくりました。 そして、国立第一銀行の頭取となります。銀行の役割は殖産。つまり、国が主導して産業を早急に起こすことでした。こうして富岡製糸場、王子製紙、東京ガスなどの理事も一手に引き受けていました。 一方明治4年、浅野総一郎は東京の本郷、前田藩邸跡の赤門の前までたどり着き、その門前にあった宿・大塚屋に滞在することとなりました。 そして、お茶の水の橋のたもとで一杯一銭の「水売り」を始め、これが意外に儲かったのです。

浅野は、今でいう、コピーライター的なセンスを持っていたと思います。同じ水を売るにも、人が飲みたくなるような命名をしたり、場所を選ぶ商売上手でした。 また、夜明け前から深夜まで働き、徒手空拳の身から大実業家へと成長できたのはまさに、この二つの手法からです。まず第一に、味噌など包む容器として重宝されていた竹の皮を大量に千葉から船で運び一大財産をつくりました。竹の皮から、薪炭、石炭と次々と商売を大きくしていきました。

そして次に、当時は誰も見向きもせず、放置してあったコークスに目をつけます。このコークスを非常な安値で全て買い取り、燃料化の研究に取り組み、深川の官営セメント工場で石灰を非常な高温で燃やすことに成功、廃棄物の有効利用や、自然リサイクルの天才でもありました。  

渋沢栄一と浅野の出会い

渋沢栄一と浅野との出会いは明治9年(1876)の夏。浅野は当時一民間の燃料商人でありましたが、 コークスの燃料化に成功し大きな利益を手にしていた時です。 当時(明治9年頃)のお金で4万円もの自己資金を持ちながら、自ら汗を流して浅野の働く姿に渋沢は驚きました。渋沢栄一の知遇を得てからも、浅野の勤勉努力は変わりませんでした。そして様々な場面で渋沢の信頼を増していき、その後55年間、途切れることなく交流は続きます。 (写真は舞台全景)

浅野に官営セメント工場が払い下げられたことはよく知られています。このことが、経済史で取り上げられるのは、官営事業を初めて民間に託した第一号だったからです。 明治13年(1880)頃から、国営事業というものは、一つのサンプルであり、いずれは民間に払い下げられるべきものという考え方に世の中が変わっていきます。民の力を増すことこそが、日本の国としての国力の真の力をつけることになると大隈重信も応援。 

政商でもなく、老舗のバックグラウンドもない一民間人に国営であったものを託すのは国としても冒険ではあったでしょうが、払下げの理由は浅野総一郎が「確実なる営業人」であったということに尽きます。そして、明治16年(1883)には官営セメント工場の支配権が完全に浅野のものとなります。まさに、汗と努力と工夫力、実践力でつかみ取った実業家・浅野総一郎として、先輩実業家たちと肩を並べるようになったのです。

以上、浅野総一郎と渋沢栄一についてお話をさせていただきました。 どうもありがとうございました。

5分間の休憩後、恒例の第2部、「百合道子コンサート」へ移る。
特別ゲスト出演:百合道子さん(ソプラノ)
          添田千恵子さん(ピアノ伴奏)

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                                    (文・佐藤邦康)

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