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 プロフィール

 

獅子文六を語る

文化講演会:2013年10月20日(日) 13:30開演
場所:「海の見えるホール」(東海道線大磯駅前 ステパノ学園内)       
演題:「獅子文六を語る」 
講師:牧村健一郎氏(ジャーナリスト)
主催:明治大学大磯駿台会
後援:大磯町

第9回目の今回は大磯町西小磯に住み、NHKの朝の連続テレビ小説の第一作目となった「娘と私」などの家庭小説を書いて昭和30年代にTVや映画で人気を博した作家の獅子文六さんについてのお話です。 講師は現在も朝日新聞(土曜版)beの記者として健筆をふるう傍ら、「獅子文六の二つの昭和」を出版されたジャーナリストの牧村健一郎氏です。

町長に代わって挨拶

 栗原匡賢(くりはらまさかた)氏
        (大磯町副町長)

この4月に大磯町副町長に就任いたしました栗原でございます。30年間、神奈川県庁に勤め、そのあと県町村会の事務局長をやっておりました。その間に中﨑町長の知遇を得、大磯町に呼ばれました。本日は町長の代わりです、よろしくお願いします。

大磯町は観光の目玉として地域を「山」、「海」、「邸園文化」の3つのゾーンに分け、県から第4番目の観光地の認定を受けつつ、一次産業~三次産業をまとめて六次産業化を目指して展開中。 特に、大磯の象徴である邸園文化ゾーンには8人の総理大臣が住んでいたことがあり、 滄浪閣(伊藤博文邸)、旧陸奥宗光邸、旧大隈重信邸、旧吉田邸などは日本中、世界中で誇れる部分でございます。

また、それに連なる東海道松並木などの景観は知事も特色のある観光地として期待しており、住民の皆さんの希望にかなうようになんとか残し、上品な観光地を作り上げていきたい。今後もいろいろな場面で皆様にお願いすることがあるかと思いますがその節はよろしくお願いします。

牧村健一郎氏の講演要旨

獅子文六 明治26年(1893)~昭和44年(1969)
             (昭和44年11月 文化勲章受章)

獅子文六さんのゆかりの大磯で講演できることを大変うれしく思います 。
文六さんの生涯を簡単に説明いたします。本名は岩田豊雄。明治26年、横浜市生まれ。少年時代に亡くなった父は大分県中津藩の武士の出身で、福沢諭吉の門下生だった。
慶応幼稚舎から普通部へ進み、文六は中退後、家で10年ぐらい文学青年をやっていた。
28歳の時、母逝去。自分はこんなことでいいのかと自問し、29歳で父の最後の遺産を売ってフランス留学に賭けた。かの地では大学などに通うわけではなく、芝居をたくさん見て演劇を勉強した。ある意味で、これは一番まっとうな勉強の仕方だった。

カルチャーの壁

留学での最大の出会いは、日本人の留学生相手にフランス語を教えていた女性マリー・ショウミーとの運命的なものだった。彼女は両親を説き伏せて文六と結婚し、相当な覚悟をして日本行きを望んで大正14年(1925)7月、文六と日本にくる。翌月、娘の巴絵(ともえ)が生まれ、フランス語を教えたり、演劇の翻訳などをして文六を助けた。

が、あの時代の外国女性が日本式の生活をしていくのは無理だった。同じ人間だから分かり合えるというものでもなく、乗り越えることが難しいほどの「カルチャーの壁」にはばまれ、心身ともに大変なストレスを抱え込むことになっていた。 マリーは巴絵が5歳になるころ発病、娘を残して故国で療養するため帰国する。

昭和7年マリー逝去。文六と巴絵は二人きりの生活を強いられた。 昭和9年4月、愛媛県出身の富永シズ子と再婚。わずらわしかった家事と娘の世話をシズ子が親身にやってくれたお蔭で執筆に専念することができるようになった。 (写真左から文六、巴絵と2度目の妻シズ子)

作家生活の中での主な作品としては、フランス人の先妻との間に生まれた巴絵の成長を見守る父親の自伝的小説「娘と私」がある。NHKの朝の連続テレビ小説の第一作目として昭和36年4月~37年3月に放送され、当時国民的話題となった。

その他に漫才の「獅子てんや瀬戸わんや」の芸名にもなった「てんやわんや」、「箱根山」、「大番」、「自由学校」など多数ある。 また戦時体制の中で執筆した「海軍」が進駐軍の目にとまり、パージ(追放)になりはしないかと昭和20年12月、妻のシズ子さんの実家のある現在の宇和島市津島町岩松に疎開をする。

また二人になっちゃたね

疎開から東京へ戻り、御茶ノ水の主婦の友社別棟に住む。マイノリティーの人々に関心があった文六は駅近くにたむろしていたホームレスをテーマにした「自由学校」を書いた。しかし、大磯に移る直前、2度目の奥さんのシズ子さんが急死してしまう。私は2006年にbe取材のため巴絵さんにお目にかかったことがあるが、シズ子さんの死で大きなショックを受けた文六は巴絵に「また二人になっちゃったね」と言ったという。

最初の妻のマリーさんの没後、再婚して落ち着いたと思ったら、また二人になってしまった。リアリティーに富んだ切実な言葉だった。亡くなった後、巴絵の養育の苦しみをいろいろなところで書いている。 日英混血女性の「アンデルさんの記」、日独混血の少年を書いた小説「箱根山」などもそんな苦労がモチーフになって取り上げられている。 (写真:娘の巴絵と)

小説「自由学校」とゴールデンウィーク

ゴールデンウィークという言葉はこの「自由学校」から始まった。小説があまりにも当たったので大映と松竹の両方から映画化の話が文六のところに舞い込んだ。
俳優は違うが同じ原作で同じ時期に同じタイトルの映画が二つ同時に上映される。
今では信じられない話だが、5月の第一週の憲法記念日、こどもの日の週に公開され大ヒット作になる。

それまで映画ではお正月とお盆がかきいれ時だったが、映画の関係者がこれを機にかきいれどきをもう一つ作り、ゴールデンウィークにしようと言ったのが始まりだったらしい。ゴールデンウィークとは大映、松竹が「自由学校」という名の映画を2つ同時に公開したことによりできた言葉。 NHKだけは現在もゴールデンウィークという言葉は使わず、「大型連休」と言っている。NHKに問い合わせたところ、①できるだけ横文字は使わない。②映画の世界の「業界用語」というのが理由だった。

ドイツ兵と小説「箱根山」

「箱根山」という小説。箱根の観光開発をめぐって西武鉄道、東急電鉄、藤田観光、小田急電鉄などいくつかの企業が争奪戦を演じて大騒ぎをする。文六がもう少し長命だったら、これを背景にして書きたいといっていた日独混血少年の話がある。
昭和17年、横浜港で停泊中のドイツの仮装巡洋艦が何かの事故で沈没する。戦争中のことだったから新聞には大きく載らなかったが、このときドイツ兵が60~70人くらい死んで100人くらいの人が助かった。

ドイツは日本の友軍だったから、政府は箱根の芦の湯の松坂屋旅館に生き残ったドイツ兵を集めた。100人ともなれば軍艦が一隻きたようなもの。日本にくる途中で、オーストラリアあたりで商船を捕獲してたので缶詰などの食糧はたくさん持っていた。コメなどは日本の海軍省やドイツ大使館などが調達してくれたので衣食住に事欠くことはなかった。

調理をする人、洗濯する人。100人近くいたドイツ兵が生活するには何の不自由もなかった。敵がくるとかの緊張感はまったくなく平和そのもの、それでもやることがない。こんな状況で20代の若い男が身をもてあましていたら、関心はどこへ向くかはもう決まっている。

日本の若い男性はほとんど出征していない。すぐそばに温泉はたくさんあり、旅館の仲居さんとなんとなく交友関係が生まれてもおかしくはなかった。 贅沢なもの、おいしいもの、舶来のいろんなものを持ってきてくれる。となると周囲の女性たちも宮ノ下の芸者さんなども放ってはおかない。プロの人も結構稼ぎに来ていたらしい。 (3度目の妻・幸子さんと文化勲章受章の時)

日独友好の草の根レベルの交流が生まれる。そこで男と女の間にいろんなことが起きた。この抱腹絶倒のいろんな話を文六は松坂屋旅館の主人から聞いて小説「箱根山」に書いている。芦湯温泉から一晩かけて山を越えて仙石原へ行き、朝の点呼の時刻までには帰ってくる。青い目の沢山の子供がうまれた。2年前に芦の湯に取材にいったが、日独混血の目の色の違う人がいたという話を聞いた。

文六は昭和18年に宇和島へ行く前に湯河原に滞在していたが、地元の警察の人が「どうも箱根の山にいるドイツ兵と日本の女性はおかしい。防諜の関係で取り締まらなければいかんな」と言っていたのを聞いたことがある。これが小説「箱根山」の執筆につながっている。
 文六は男と女の物語が大好きなのでその辺の話を書きたいと言っていた。
ある日、松坂屋旅館に初老のドイツ人が訪れた。昔を懐かしんで涙をポロポロながして身の上話を始めた。7~8人が集まり日独の交流が始まった。そんな話はいくつもあった。

 昭和25年、57歳で作家として一番脂の乗り切った大磯時代の開始。彼の代表作はほとんどここ大磯で書かれている。そんな意味で文六はこの大磯の町を愛していたし、この町のことをエッセイでいろいろと書いている。わたくしは文六のことを「昭和の漱石」と呼んでいるのだが、そういう人がこの町にいてしかも代表作を書いた、大磯はそういう町であることを強調したい。

質 問

この後、会場からの質問に答えた。
「国際結婚した最初の奥さんとのご夫婦の関係は実際のところどんな感じだったのですか?」

日本に連れて帰るくらいだったから悪くはなかったが、夫と妻の間に横たわる越えがたいカルチャーの問題があった。死ぬ直前に書きたいことが2つあるといったが、それは芦湯温泉のドイツ兵のこととマリー・ショウミーと結婚した経緯。しかし具体的に書いたものは何も残していない。「娘と私」にも書いていない。よほど書けなかったことがあったのだろう。個人のなにか叫びのようなものはあったのだろうがそれはわからない。「東は東」という戯曲にヒントがあるが自分の問題としては書いていない。今も昔も国際結婚のもつ本質的な難しさがあったのでしょう。 (最初の妻フランス人マリー・ショウミーと文六)

参考資料:神奈川県立近代文学館発行「没後15年 獅子文六展」

5分間の休憩後、恒例の第2部、「百合道子コンサート」へ移る。
特別ゲスト出演:百合道子さん(ソプラノ)
          添田千恵子さん(ピアノ伴奏)

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                                    (文・佐藤邦康)

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