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明治大学
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第10回文化講演会&コンサート

日時:2014年10月26日(日) 13:30開演
場所:「海の見えるホール」(東海道線大磯駅前 ステパノ学園内)       
  第一部
演題:「松本順の大磯への貢献と海水浴」  
講師:畔柳昭雄氏(くろやなぎあきお 日本大学理工学部教授)
  第二部
「歌と語りの音楽コンサート」
出 演:百合道子(ソプラノ)、添田千恵子(ピアノ)
主催:明治大学大磯駿台会畔柳昭雄
後援:大磯町

明治時代に陸軍軍医総監だった松本順が、日本で初めての海水浴場を大磯町に開設して以来、今年で130年目になります。第10回目を記念して、今年は神奈川県の港湾審議会の会長としても活躍し、 幅広く海浜文化を研究し、この道の第一人者である畔柳昭雄先生に大磯と海水浴、松本順のことなどを語っていただきました。
(写真右)

中崎町長の挨拶

皆さんこんにちは。文化花盛りの大磯で講演が聴けるのはたいへん幸せであります。 健康こそがこの町の人が希望することであると思います。この大磯が、日本で初めてでありましょう海水浴発祥の地となったのは松本順先生のおかげであります。これは我々の誇りとするところであります。

自然に恵まれた大磯に松本順先生が130年前に海水浴場を開設し、たいへんなにぎわいを作り出しました。今まさにかってのにぎわいを取り戻したい、皆様のお力を合わせてこの大磯を元気にし、次の世代の子供たちにこの元気を渡していきたい。今日の講演会もそのような趣旨であると理解しております。がんばって大磯を元気にしていきましょう。

畔柳昭雄氏の講演要旨

       松本順  天保3年(1832)~明治40年(1907)

日本大学理工学部海洋建築学科の畔柳と申します。専門は海洋建築という新しい建築工学分野を研究しています。この分野は35年ほど前に建築学の一分野として誕生しました。主に大磯のような海岸をもつ地域の海水浴場、港湾、漁港などの海や水辺に係る建築や地域づくりに関する調査研究を行っています。本日は、「松本順の大磯への貢献と海水浴」と題してお話しさせていただきます。

大磯は右肩上がり 大磯海水浴場

「海水浴発生の地」は日本全国にたくさんあります。 日本列島の海岸線は大よそ3万3千キロもあるため、さぞかし海水浴の歴史は長いと思っている方が多いことと思いますが、わずか120年位の歴史です。

海水浴場の分布は、明治43年の時点で、東は仙台の松島、西は鹿児島まで全国に102ヶ所程ありました。その頃から神奈川県は海水浴の先進地で既に20ヶ所程ありました。 現在は全国に1300ヶ所以上の海水浴場があり、600ヶ所の海水浴場には海の家が3000棟以上あります。この海の家は概ね夏の2ヶ月だけ使われ、残りの10ヶ月は倉庫の中に眠っています。

海水浴客のピークは、昭和59年(1984)で全国で3500万人以上が海水浴を楽しんでいましたが、最近は次第に右肩下がりとなっています。そして、平成23年(2011)にはついに1000万人を切ってしまいました。 このままいけば「海水浴」という言葉はおそらく死語になってしまうかもしれません。

減った理由は小学校での臨海学校開催や夏休みのプール教室をやめたことが一因としてあると思います。事故の時の責任の所在が厳しく問われることから最近はボランティアも手を引いてしまう。こうしたことが多少影響していると思います。一方で日に焼けるのがイヤ、海からあがって体がべたつくのもイヤと海に行かない色白の小学生も増えており、価値観の多様化が海水浴を楽しむ機会を減らしており、行く末が心配です。

神奈川県の状況はと言えば、平成22年は750万人、23年は530万人で26年は500万人をついに切った。こんな右肩下がりの中にあって唯一大磯は26年11万人に増加し集客力を高めています。当然、この数字のもとになっているのは、明治18年(1885)に当地に海水浴場を開いた陸軍 軍医総監だった松本順の功績であります。

日本人にとっての海水浴 

明治の初めまで、一般の人が海に入ることはなく、海ははるかに遠い存在でした。 当時は海水浴(うみみずゆあみ)と言って、われわれが想像する海水浴(かいすいよく)ではなく、海岸で静かに海水につかる医療行為でした。 一方、松本順を中心とする明治時代の医学界が取り組んでいた「海水浴」の他に、明治時代には「水練」というものがありました。畔柳昭雄

日本では元々、川での泳ぎを武術として武士が習ってきましたが、それが水練と呼ばれて継承され、隅田川には水練場がたくさんつくられ川での泳ぎを教えていた。

しかしながら、次第に隅田川の水質が汚れることで、水練場も東京湾の月島や相模湾の江ノ島などに移転することにより、そこで既に行われていた医療行為としての海水浴と合体することで日本独自の海水浴文化が生まれました。 それに目をつけたのが鉄道会社、新聞社でした。

当時の鉄道省では全国的に海の家を造るとことで鉄道沿線の乗客が増え、新聞社もまた購読者を増やすことにつながりました。企業も厚生施設として海の家を使うようになりました。また、海浜院またはサナトリウムと呼ばれる療養所など、海岸の気候のいい場所に建てられ、虚弱体質の人は健康改善などが図られました。そういう過程を経ながら今日の海水浴場が成立しました。

当時は今のようにディズニーランドなどの娯楽施設はありませんでした。そのため、夏場の唯一の娯楽として海水浴場が方々に開設されました。 丁度その頃、明治政府は近代国家をつくるため、西洋からお雇い外国人を呼び寄せましたが、彼らが夏の片瀬、江ノ島などの海岸で泳いだ経験を日記に書き残しています。それが元になり湘南のリゾートイメージができ上がり、大磯を含めた湘南海岸では今日でも海浜文化の集積度が高い地域となっています。

大磯の恩人・松本順

江戸幕府の15代将軍の侍医であった松本順は26歳のとき、西洋医学に傾注して海軍の長崎伝習所へ入所しました。当時の幕府は西洋医学を禁止していたため医学生としてではなく、海軍の伝習生として入所し、オランダ人医師・ポンぺの助手となり本格的に西洋医学を学び、海水浴を使ったリウマチ治療を研究しました。

戊辰戦争後、会津から戻って、蘭疇舎(らんちゅうしゃ)という名前の病院を東京で開き、その後、陸軍の初代軍医総監となった。いろいろな患者の治療にあたり、自らを蘭疇と名乗り、温泉でリウマチ治療をするよりも、海水浴の方がはるかに効果があるということなどを実践した。 一方、大磯町は、明治になると参勤交代が廃止された影響と二度の大火で町はますます疲弊した。

陸軍軍医総監を退官した松本順は、海水浴がリウマチにも効くことを全国行脚して広めつつ、海水浴の適地を探し全国行脚を行っていた。ある時、小田原へ行って海水浴うんぬんを地元の人々に話してみたが受け入れてもらえず、消沈した気持ちで大磯へ立ち寄り照ヶ崎海岸を見たとたん、これが自分の理想としていた海水浴の適地だと言った。

これを百足屋旅館(むかでや)の宮代謙吉(みやだいけんきち)が聞き及び「大磯の疲弊した状況を打破するために海水浴場を開いてほしい」と順に懇願した。開設には漁師の一部に反対の声があり「開設危うし」の状況もあったが、順が「海水浴場をつくることが人々や町に益をもたらす」と説いて回ることで、ようやくの思いで漁師らの協力を得ることができた。松本順はまさに大磯の恩人と言える。このころ、順は「海水浴法概説」という書籍を発行している。

後藤新平と長与専斎 長与専斎

また、内務省衛生局の初代局長を務めていた長与専斎は、若き日、長崎の伝習所で初めて会った松本順と志を同じくしていた。横浜の貿易商などの財政的な協力で鎌倉海浜院をつくったが、開業してわずか2年で併催の憂き目にあった。専斎もまた「海水浴説」で海水浴の効能を説いている。

さらに、後藤新平(満鉄総裁、東京市長、台湾総督)は医者として名古屋の病院に勤務していた。その頃、尾張名所図会に描かれた海水浴の光景を見ながら西洋の近代的な海水浴の導入を図ろうとした。その後「海水効用論」を著し、衛生局長・長与專斎に建議書として送り届けた。

医者であった松本順、後藤新平、長与専斉らが中心となり、今のように「泳ぐ」というよりも波打ち際で身体に波をあてて、皮膚や病弱な体を鍛えることの重要さを医学的に解明し、それを奨励した。

当時の医学は海外からの輸入の薬に頼る治療が多かった。貧しい日本人にはもっと簡単な治療法はないかと思案した結果、「海水浴」に行きついた。松本順はこれをもっと普及させようと努め、後藤新平、長与専斉らも志を同じくして各人各様に普及に努めた。その結果、今日全国にたくさんある海水浴場の礎が築かれた。

東京からしゃれた奴らがやってきた

松本順は療養施設として大磯の照ヶ崎海岸に大旅館を建て、その地先に日本で最初となる浜茶屋を設けた。また、この頃になると松本順先生の名は世間に広がり、治療を受けたいと希望する政界リーダーの伊藤博文はじめ多くの政財界人が大磯に別荘を建てるようになった。

それが明治20年(1887)の鉄道開通により一層顕著になり、歌舞伎役者なども含め東京からしゃれた人たちがどんどん大磯へきて海水浴を楽しんだ。有名人のほか、一般の人たちの間にも旅館などに宿泊して海水浴を楽しむことが広まった。

しかし、教育者であり実践女学校創設者であった下田歌子女史は海水浴そのものを奨励しながらも、海水浴に行って膚をあらわにする若い女性に対して苦言を呈した。先進的な大磯でも保守的なところがあり、海に男女の区域を設け混浴を禁止し、それが大正期まで続いた。

岩倉使節団に同行した長与専斎や順の実弟の林董(はやしただす)らは、海水浴発祥の地とされる英国のブライトンの海水浴場をつぶさに視察した。その結果を松本順に報告することで、海水浴客が海に入るとき一緒に入り、海水爺や女性がお茶をだす仕組みを日本流に考え出した。こうして海水浴先進地で行われていた取り組みが日本の海水浴場でも実践された。

大磯には松本順の遺伝子が脈々と 松本順謝恩碑

今日の海水浴客は年間一千万人をきり、次第に海から遠のいているが、海を知るということは安全性を高めることにもつながる。親水工学の観点からいえば、もうすこし海が見える場所を造っていただくと町と海が近づいて、大磯海水浴場や照ヶ崎海岸の在りし日の姿を思い浮かべることができるのではないかと思います。

日本は国境というのは見えないために、海岸でいろいろな問題が起きていてもなかなか気がつかない。 海に背を向けていると3・11東日本大震災のように、いつなんどき被害を被るかもわからなくなってしまう。海と親しむという観点からも、今一度海水浴を見直すことが必要と思います。 (写真右、現在、松本順謝恩碑の側は西湘バイパスが走る)

現在、私は神奈川県の港湾審議会の会長を兼ねていますが、松本順がこの地で海水浴場を開いたというその遺伝子を皆さんに是非継承していただきたい。 特に現在、全国的に海水浴場への関心が薄れてきています。大磯は神奈川県の中では唯一海水浴客が右肩上がりで増えた場所ですから、来年あたりも増えるように皆さんで是非知恵をだしていただければいいかなと思います。

5分間の休憩後、恒例の第2部、「百合道子コンサート」へ移る。
特別ゲスト出演:百合道子さん(ソプラノ)          
          添田千恵子さん(ピアノ伴奏)

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                                    (文・佐藤邦康)

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