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第11回文化講演会&コンサート

日時:2015年10月4日(日) 13:30 開演
場所:「海の見えるホール」(東海道線大磯駅前 ステパノ学園内)       
   第一部
演題:「相模国府祭の由来と相模国総社 六所神社」 
講師:荒井秀規氏 (元大磯町史編集委員、元明治大学文学部講師)
柳田直継氏 (相模国総社 宮司)
  第二部
「歌と語りのコンサート」
出演:百合道子(ソプラノ)、添田千恵子(ピアノ)
主催:明治大学大磯駿台会
後援:大磯町

第11回目の今回は国府地区に六所神社があることから、奈良時代にできた国府制度の背景、総社の起源、国家安泰の祈願所として栄えた六所神社の祭り、行事などについて語っていただきます。前半は大磯町の元・町史編集委員の荒井秀規氏、後半は六所神社の宮司の柳田直継氏にお願いしています。
第二部は恒例の百合道子さんが添田千恵子さんのピアノ伴奏でお祭りの歌を歌いました。

中﨑町長の挨拶

こんにちは。
いま大磯運動公園では5000人集まって恒例のチャレンジフェスタが行われています。私は、元気な高齢者が沢山集まっておられるこの会場でも挨拶をしたいと急ぎ駆けつけました。 町長になりまして国府祭で5回白い馬に乗り、宮司さんと一緒に町を練り歩いております。

本日の講演で、私は国家の安泰、地区の安泰のいわれを学び、また相模の総社といわれるように周辺の自治体と仲良くやっていくことも学びたいと思います。「大磯ゆかりの人々シリーズ」も今回で11回目となりました。どうか続く限り今後もやっていただきたいと思います。 本日はお招きいただきましてありがとうございます。

【第一部】 

荒井秀規氏の講演要旨 荒井秀規

荒井秀規と申します。
 明治大学文学部の卒業で、その後大学院進学、講師と、18歳から40歳過ぎまで明治大学に通っておりました。大磯とは関係が深く大磯町史の古代編の作成を担当しました。また、町史のダイジェスト版も書いていますのでそんなことを踏まえて六所神社のことを説明致します。
現在、藤沢市役所の郷土歴史課におりますが、藤沢というと遊行寺という一遍さんのお寺があります。まもなく国宝「一遍聖絵」全12巻を公開する展覧会があります。

 相模国府は平塚から大磯へ

国府祭(こうのまち)は国府のお祭りで、国府とは今の県庁所在地と思ってください。かって源頼朝が鎌倉に幕府を開く前、大磯が神奈川県の中心であった時代があります。その前は平塚。戦国時代は後北条氏の小田原が中心。

 加賀百万石の前田家本の「色葉字類抄」等によると平安後期の相模の国には足上(足柄上郡)、足下(足柄下郡)、余綾(大磯)、大住(平塚)、愛甲(厚木)、高座(海老名)、鎌倉、御浦(三浦)の8つの郡があり、このうちの大住に国府があったと記されています。旧国府があった場所は平塚八幡宮です。これが9世紀終わりから10世紀前半の状況です(右の写真)。

ところが、鎌倉初期の「伊呂波字類抄」には余綾(大磯)のところに国府の文字があり、大住(平塚)のところにはないことから国府が大磯へ移ったことがわかる。
保元3年(1158)の「石清水文書」には新国府(大磯)、旧国府(平塚八幡宮)の別表記があり、平塚から大磯に国府が移ったことがここでも明記されている。つまり、1158年には国府は大磯に来ていた(余綾国府)。

治承4年(1180)の「吾妻鏡」によると、源平戦の最中、富士川の合戦で頼朝が部下に論功行賞を相模の国府(大磯)で行ったことが記されている。 以上のことから、平安から鎌倉時代にかけての中心が平塚から大磯へ移ったことは間違いない。これが国府の変遷です。

平塚の前に別の国府があった? 国府があるところには国分寺がある。たとえば武蔵の国の国府は府中市。近くに国分寺市がある。海老名に国分寺跡があるので、国府は海老名、平塚、大磯という順で動いたとする説が江戸時代からある。

平塚国府小田原の千代廃寺を初期の国分寺とする説もある。その説だと小田原、平塚、大磯と動いたのかも。 2004年に湘南新道の道路工事で平塚の四之宮で8世紀前半の国府の脇殿跡が発掘された(写真右)。 これにより間違いなく平塚から国府が一回だけ大磯に動いている。これが現在の研究状況です。

平塚国府から大磯へ ―― なぜ動いた?

 平塚の国府は何故大磯に動いたかについて2つの解釈がある。
① 地震説
 類聚国史によると弘仁9年(818)に関東大地震がおきている。 「相模・武蔵(東京、埼玉)・下総(千葉)・常陸(茨城)・上野(群馬)・下野(栃木)で地震う。山崩れて谷埋ること数里なり。圧死する百姓勝げて計ふべからず」の記述がある。

また日本三代実録によると、元慶2年(872)にも相模の被害が大きかった関東大地震があり、5~6日の余震があったことが窺われる。 「夜、地震。是の日、関東諸国の地、大いに震列す。相模・武蔵、特に尤も甚だしきを為す。其の後五・六日、振動止まず。公・私の屋舎、全きものは無し。或いは地窪れ陥ち、往還は通はず、百姓の圧死するは勝げて記すべからず。」と。

このときに平塚国府は相当の被害を受けたことが想像できる。このときの海老名の国分寺も完全に潰れている。そんなわけで次に再建するときは大磯に移した。
② 平塚国府火災説
 百人一首にも歌がある女流歌人の相摸の歌集(相模集)に、平塚にあった国司の館が焼けてしまったと記されている。
夫の大江公資が相模国守(知事)に決まり、京都から相模の国に赴任中に知事公館が火災で焼失したことを知事夫人の立場で書き残している。

大磯は平塚から国府がやってきたから開けた町になったのではなく、古代から大陸との関係ですでに開けていてその頃から柳田神社があり、そこへ国府が来て総社六所神社となった。国府は11世紀の終わり以前には大磯へきているが、いつ来たのか年代を特定することは難しい。自然災害や火災などの理由で平塚国府が機能しなくなり、国府が大磯へ移ったことで六所神社が総社になったことに連動していく。

大磯の国府はどこに・・・

大磯の国府がどこなのかははっきり出てこない。国府本郷という名前のとおり大磯で国府があったのは間違いないが、いまのところ、大磯ではっきりとした国府遺溝はでていない。平塚の国府ができた時は、律令制度がはっきりしていた時代だから巨大な建物を作りやすかった。ところが、平安末期になると律令制度が揺らぎ始め、大きな建物を造れなくなったので遺構としては出てこないのも原因のひとつかも知れない。

大磯国府馬場遺跡のあたりから役人が使う陶器等が発掘されているから、平塚から移ってきてこのあたりで建物が建ったであろうと推測はできる。 馬場遺跡の付近には、国府に関係深い守公神社もある。歴史書に出てくるのは天文13年(1544)の「北条家印判状写」 が初めて 。 六所神社は大磯だけでなくあちこちにある。都(京都)から派遣されてきた国司が最初に土地の神様に挨拶をするために一之宮、二之宮・・・と回ってゆく。
(写真は大磯町の馬場にある守公神社)

しかし、国司は挨拶に行くのがだんだんと面倒になり、最後には一個所に集めて挨拶をするようになる。国府(県庁所在地)の周りに神社を集めて一回挨拶すれば終わりという形を作った。 念頭の挨拶、月初めの挨拶等いろいろある。ぐるぐる回っていくより県庁所在地に神社を集め、国司が国内の巡幸の労を省くために作ったものを総社という。
 安房(館山市)などは総社となっている。相模、武蔵、安房、下総、下野などでも六所神社イコール総社となっている。(そうしゃ)ともよむ。

平安時代の終わりに書かれた「時範記」に初めて総社の記述が見られる。 総社の 所在地に府中、国分寺、国府の名前がつくところは結構ある。 総社は現在、国府、府中の名で残っている。 岡山県に総社市という市がありますね。 そうした名前が昔のことを今日に伝えている。市町村合併で昔の地名は現在なくなりつつあるが残しておきたいところですね。

相模国総社 六所神社

治承4年(1180)の「吾妻鏡」に六所の名前が初めてでくる(六所宮とも呼ばれる)。後白河法皇の49日の法要の時、六所宮から2人呼ばれている。 神馬を奉った記録もある。もともと柳田神社があってそれが六所神社になり、平塚から国府がやってきて総社になった。

平塚に国府があったときの総社は平塚八幡宮。大磯に移って六所神社が総社になった。 大磯の六所の近くに集めた神社とは一之宮の寒川神社、二之宮の川匂神社、伊勢原三の宮の比々多神社、 平塚市の四之宮の前鳥神社、五の宮格の平塚八幡宮。その地で一番有力なところから一の宮とつけた。 相模は歴史からも寒川が一番であることは動かないことですが、平塚八幡宮の名前は鎌倉に鶴岡八幡宮ができて八幡宮が力を持ってきた経緯もある。

国府祭 (こうのまち)

六所神社では、毎年5月5日に国府祭が行われ、「座問答」という有名な儀式が行われる。国府祭と書いて国府祭(こうのまち)とよんでいるが、国府のあったところにはそうしたお祭りがある。

有名な所では武蔵の国(府中市)のくらやみ祭り、千葉県の館山市安房の八幡祭(やわたんまち)、それと大磯の国府祭、一番有名なのがこの3つ。最近はそれにあやかって似たものが作られている。 歴史のあるお祭りなのか最近作られたお祭りなのか興味のある人は調べてみてください。 大磯は古代から渡来人との関係ですでに開けていたが、そこへ平塚から国府が来た。 国府の変遷の過程で勢力争いがあったのだろう。

座問答一宮寒川神社(寒川町)と二宮川匂神社(二宮町)が虎の敷物でどちらが上かを争う座問答という儀式が国府祭で毎年行われる。三宮比々多神社(伊勢原市)の宮司が仲裁にはいり、「いずれ来年まで、来年まで」と保留にして行事を終わらせる神事。土地の勢力がお祭りしていた神様の争いになる時代。ただ、古代の神事に用いられるのは鹿の皮ですから、虎の皮が使用される部分は近世からでしょう(写真は座問答)

以上、国府と六所神社についてお話をさせていただきました。
どうもありがとうございました。

5分間の休憩後、恒例の第2部、「百合道子コンサート」へ移る。
特別ゲスト出演:百合道子さん(ソプラノ)
          添田千恵子さん(ピアノ伴奏)

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                                    (文・佐藤邦康)

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