明治大学大磯駿台会 講演会

明治大学大磯駿台会

大磯に在住する明治大学の出身者の集まり。 単なる同窓会活動だけではなく、大磯教育委員会の後援を得て無料の文化講演会等を開催し、大磯から全国に向け文化の発信をしている。        

第一回の講演会は2005年10月23日、大磯駅前の「海の見えるホール」で元国際新聞編集者の中島源吾氏(大磯在住、明治大学講師)を招いて「孤独な巨人・ニッポン」を開催し好評を博した。

講師:砂川幸雄氏    プロフィール

湘南国際マラソンの宣伝とお願い (実行委員会)

第二回講演会

木暮実千代 知られざるその素顔 (黒川鍾信氏

問合せ先

〒255-0003
神奈川県中郡大磯町大磯 603
荒金謙次
℡0463-61-3057    

        

         

金儲けの秘訣は 勤倹力行、克己心と貯蓄

文化講演会:2008年10月13日(月)13:30開演

場所:東海道線大磯駅前「海の見えるホール」にて

講師:砂川幸雄(すながわゆきお)氏(作家)

題目:「金儲けが日本一上手かった男・安田善次郎の生き方」

共催:明治大学大磯駿台会、大磯町商工会、平塚法人会大磯支部

後援:大磯町、大磯町教育委員会

毎年5月末、神奈川県大磯町にある旧安田別荘の公開日には地元大磯町民はじめ多くの人が見学に訪れ、安田庭園は今なお親しまれている。 現在の、みずほ銀行の中核をなす安田財閥を一代で作り上げた日本の銀行王・安田善次郎の評伝「日本一金儲けが上手かった男・安田善次郎の生き方」が2008年4月ブックマン社から刊行された。
これを記念して著者である作家の砂川幸雄氏が海の見えるホールで特別講演を行った。砂川氏は明治時代の財界人の評伝を人物中心に書いて、最近とみに注目をあつめている。

開会に先だって、明治大学大磯駿台会の山口陽一会長から「昨年、大磯町は『美しい日本の歴史的風土100選』に選定されました」と開会の挨拶があり、次いで大磯町長・三好正則氏からのメッセージが福島教育長の代読で披露された。
「大磯に縁のある文化人、政財界人の紹介をしている明治大学大磯駿台会主催の講演会は地域の文化交流、生涯学習意欲の向上などの『元気なまちづくり』に貢献いただいており、敬意を表します」。

安田善次郎   富山県富山市出身(1838年~1921年)

 講演はまず安田善次郎の生涯を記録したDVDの上映から始まった。

明治時代の最大の成功者と言われる安田善次郎。
金儲けが日本一上手かった。彼の成功の秘密は一体何だったのだろうか。家は下級武士で貧しく、家計を支えるために昼は花売り、野菜売りなどの行商をして勤勉に働き倹約に努め、克己心をもって稼いだ金を貯蓄することを覚えた。

(写真左は砂川幸雄氏)

夜はお金をもらって本を書き写す「写本」のアルバイトをした。この写本を通して人生のバイブルとも言うべき一冊の本と出合い、この本が彼のその後の人生を決定づけた。 少年日吉丸が天下を取るまでの軌跡を描いた豊臣秀吉の物語「太閤記」である。この本はどのようにすれば成功が可能かを具体的に教えてくれたのだが、金銭上の利益よりも精神上の感化を若き日の善次郎に与えた。

少年時代の強烈な体験があった。富山藩の武士が金を借りている大阪商人に頭を下げているのをみて、「金さえあれば天下はわが物だ、自分も金持ちになろう」と誓って単身江戸へ向かった。 階級制度の時代に金の力を知る。金の前には身分も何もあったものではない。このことをすでに少年時代に悟って、自立するには勤勉と倹約を実行することだという訓戒を一生守った。

6年間の修行期間を経て日本橋に両替商を開業する。チリも積もれば山となる・・・を自ら実践 していった。「人生は克己の二文字にある。これを実行するところに成功があり、これを忘れるところに失敗がある」。4時半に起き、夜は遅く床について模範的な奉公人と近所にも評判は良かった。「勤勉第一」「万事倹約を旨とすべし」とタバコもやめ貯蓄に励んだ。

適齢期になって結婚した相手もまた、朝はニワトリの声とともに起きて朝食の支度をし、水仕事を厭わぬ働き者だった。朝早くから台所の指図をするかたわら、主人に代わって帳場に座り店の監督もしたので善次郎は仕事に全力を傾注することができた。つまり、夫婦共稼ぎの働き者だったのだ。 (満員の場内、写真上)

援助、救済、果報は練って待て

顧客第一主義の安田善次郎は「銀行救済の神様」といわれ、生涯で70余の銀行の整理・再建に取り組んだ。とりわけ明治37年、日本が日露戦争に向かっていく世の中、関西の有力銀行だった 第百三十銀行が経営破綻したとき、桂太郎首相などの要望で見事に救済を成し遂げた。しかし、彼を待っていたのは「乗っ取り、搾取」などの非難の声だった。彼は弁解せず口を閉ざしていた。

彼が銀行王と呼ばれ多くの銀行をその系列化に擁したのは、金の力にまかせて吸収合併していったからではない。銀行救済は預金者とその家族を救うこと--。この信念を変えることなく持ち続けていたからにほかならない。 このように勤倹力行と顧客第一主義で、傾いていた地方の銀行を救済して、徒手空拳から身を起こし一代にして安田財閥の巨万の富を築きあげていったのである。(写真左は銀行王と呼ばれた安田善次郎)

顧客第一主義ではあるが、客にペコペコするだけではなく、自尊心も必要だと説く。貯金がないのは病人に薬がないのと同然。何より力になるのはお金。今日の社会に生存してゆくには食うことが第一であるとの姿勢を変えることはなかった。貯金は精神修養の一つ。貯蓄心に対する無形の結果は多大であると語っている。借り物の思想でなく。自分の考えをもっていたのだ。

「自分の経験は神の教えより尊い」。物事を積極的にやるよりあらゆることに受身(待ちの姿勢)でやり、戦わずして勝つ方法を知っていた。銀行の合併・救済に関しては、破綻した銀行が救済を求めてきた時初めて動き出す。こちらから吸収・合併するために先には動かない。そんなやり方で日本一の銀行を作っている。 待つべきものは待つ。5大銀行の全貸出額の41%は安田銀行だった。吸収合併で大きくなったのではなく、救済で拡大した。「果報は寝て待て」でなく「果報は練って待て」と語っている。

ケチの美学

安田善次郎に対する世間の印象は「とにかくケチ」。それどころか彼を「安田のケチ」と罵倒した。それに対し彼は

小鳥ども笑はば笑へ、われはまた世の憂きことは聞かぬみみづく

と応じた。世間から何と悪口を言われたってかまわない。俺は自分の信じた道を歩いてゆく。 善次郎の強い信念が伝わってくる歌である。目先の慈善は人を堕落させるだけだと考えていた。 仏教の言葉でいう「陰徳」も実行していた。いいことをしても人に言わず黙ってやる。寄付を宣伝しない・・・。 実生活においても「あくまで質素であるべきだ」との原則を貫きとおした。

たとえば安田家の朝食は奉公人も含めて「一椀の味噌汁に数切れの香の物を添えた程度」だった。当然、善次郎も同様だった。「収入が多いよりも支出を少なくするほうが幸福である。いかに収入が多くてもこれを冗費すれば収支はいつまで経っても償わない」と語っている。(右の写真は大磯の安田邸内にある安田翁の大理石像)

美術家にも資金援助することに積極的だった。
大理石彫刻で有名な北村四海を無名時代から援助してきた。本場の大理石彫刻を学びにフランス留学をしたとき、名を伏せて資金援助をした。

世間がケチといっていたのはムダなことに金をつかわないだけ。生きた金を遣うところには遣っていた。安田善次郎ほど金儲けがうまくて経営学がしっかりした人はいないと言われる。 大磯の別荘で暗殺された時も、一部新聞は「守銭奴」と名指しし、「資本家の搾取」と結びつけようとした。しかし、彼は生前から「儲けたお金は社会公共のために拠出する」との信念を変えてはいなかった。

旅、情報収集

善次郎の成功の陰には「旅」というものに対して抵抗感がまったくなかったことが挙げられる。 少年時代に、富山の薬売りから他国の情報を見聞きし頭にいれていた。当時の富山藩の人々は 薬売りの影響からか長旅を意識しないほど旅慣れていた。そんな風土に育った善次郎青年は江戸へいって丁稚奉公をしているときでさえも調査・情報集めを忘れなかった。

おもちゃ問屋でも江戸の隅々まで歩けるから、江戸の地理を覚えられから・・・と積極的に江戸の町を歩き、情報を集めた。情報収集力は抜群。同じ場所へ何回も行き変化を調べている。後年多くの銀行を救済するときに他人任せにはせず、現地に行き実地に物をみる。頭でなく足で判断する、机の上ではダメ。百聞は一見にしかず。こんな考えをかたくなに守り通した。

旅先で現地の神社、仏閣までつぶさに見て、その土地を自分で判断していたので、前例を見ないほどの多くの銀行を救済することができた。明治40年代には行っていないのは壱岐一国だけと豪語するほど全国をくまなく歩いて救済銀行を見て回った。明治時代が生んだ偉大な銀行王は薬売りの富山県育ちであったことも幸いしていた。

「楽しみながら知らず知らずのうちに見聞を広め、その土地の人情、風俗を自然にわかるようにすれば仕事をする上でどれだけ好材料になるかわからない。それは学問を修めるより一層適切だ」と語っている。

国家的事業

「安田のケチ」と罵倒されようとも善次郎は83歳で人生を終えるまで国家の大事業には多額の金を寄付しており、現在も残っている建物がある。 第一次世界大戦の参戦による膨大な戦費で国に金がなかったので、建設資金を全額出資した東京大学の安田講堂(大正14年竣工)や、東京市長だった後藤新平との約束で寄付した東京市政会館(日比谷公会堂、昭和4年竣工)など。

善次郎の訃報を聞いた東京市長の後藤新平は「国家のために本当に金を遣ってみたいと思っていた安田翁に心ゆくまでに金を遣わせたかった・・・」と悲しんだという。

しかし、多額の財団設立の計画が発表されるや一部のマスメディアにより「善意の仮面を被って脱税を図るもの」と非難された。 その他、財界人のひとりとして国を大きく動かした発言をしている。(写真は現在の東京大学安田講堂)

(1)東京~大阪間を6時間で走る、明治40年の「夢の超特急電車計画」。国家がやることであるが安田財閥だけでできると鉄道敷設計画を政府に提出している。
(2)日露戦争の膠着状態のさなか、「もうこれ以上の金は出せない」と安田の一言が政府・軍部を動かし日露戦争を終わらせたと言われている。

また、浅野セメントや日本鋼管を興した浅野総一郎は富山県氷見市出身で同じ富山県人の関係で懇意にして、東京湾埋立事業など国家的プロジェクトを金融面から推進した。この埋立地には当時から鉄道が敷かれ、JR鶴見線の安善駅と浅野駅として駅や地名に二人の名前は現在も残されている。また、2人は国家100年の計で人材の育成にも力を注いだ。安田学園中学・高校(東京都墨田区横網町)と浅野中学・高校(横浜市神奈川区子安台)は現在も多くの人材を輩出している。

以下、会場からの質問に答えた。

◎殺された原因は?

自殺の巻き添え。遺書をもっていた犯人・朝日平吾は誰かを殺して有名になろうとしていた。 資本家の代表として善次郎を選んだ。自分は搾取されている労働者階級。熱海で自殺未遂の経験 がある。誰かを殺してから自殺したいと思っていた。事件後、労働者階級の同情を集めたが、背後関係はない。

◎同時代の人・渋沢栄一はどんな人?

渋沢栄一はもともと政府(大蔵省)の役人。日本の資本主義を育てた人。実業家との付き合いで上から日本の資本主義を指導、日本の近代化には大変な協力をしたが、自分から汗をかいてはいない。善次郎のような民間人を役人の立場でサポートした。国立銀行計画を推進したのはこの人。野に向かってやる啓蒙家でもあった。日本の近代化については、役人ではできない、民間人でないとダメという発想をもっていた。渋沢財閥は作らなかった。

◎善次郎の経営哲学は子孫にどのように引き継がれていったのか?

会場にきていた安田家4代目・安田篤弘さん登場。 1代目は苦労した、2代目は楽をした、3代目は落ちこぼれ、乞食。 4代目は何一つないところに生まれて運が悪い。

安田家の家訓は
①人の喜ぶことをしろ。
②人の倍働け。
③ケチで通せ。
いくら先代が残しても国のシステムが2代目、3代目で相続税をとられるようになっている。今は大磯の別荘と東京・千駄木の本家以外は全部なくなっている。
(写真左は安田家四代目 安田篤弘さん)

◎現在は昭和4年の世界大恐慌と同じような経済状況となっている。当時の安田銀行についてその辺の話を。

世界大恐慌のあと、安田銀行が縮小されたという話は聞かない。恐慌により大きな打撃を受けたとも聞いていないのでたぶん被害は少ないのではないか。経営上の大きな問題は起こっていない。安田銀行は、大恐慌にも耐えたしっかりした銀行であったのは間違いない。

このあと、1ヶ月後にせまった湘南国際マラソンの交通規制などについて実行委員長の河野太郎氏からお話があった。閉会の挨拶は大磯町商工会・重田照夫会長(写真)の言葉で締めくくり4時過ぎ散会。(文責:佐藤邦康)

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