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明治大学
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第13回 文化講演会&コンサート

日時:2017年11月12日(日) 13:00 開場 13:30 開演 
場所:聖ステパノ学園講堂 「海の見えるホール」
    (東海道線大磯駅前 ステパノ学園内)

  第一部 13:30 ~ 
演題:「吉田茂と大磯」  
講師:中島信吾氏 (防衛省防衛研究所)中島信吾 (写真右)

プロフィール
1971年大磯町生まれ。
  早稲田大学教育学部卒業、慶応義塾大学大学院法学研究科修士課程、同大学院博士課程修了。法学博士。
  現在、防衛省防衛研究所戦史研究センター 安全保障政策史研究室長。
また、 日本防衛学会理事・編集委員長。 「戦後日本の防衛政策 ― 吉田路線をめぐる政治・外交・軍事」をはじめ論文、 著書多数。 専門は日本政治外交史。

 第二部
「歌と語りのコンサート」
出演:百合道子(ソプラノ)、添田千恵子(ピアノ)
主催:明治大学大磯駿台会
後援:大磯町

第13回目の今回は第一部として、2017年3月末に旧吉田邸が再建されたのを記念して、防衛省で戦後史を研究している法学博士の中島信吾氏をお招きして、吉田茂元首相と大磯とのかかわりをお話していただきました。
第二部は恒例の百合道子さんが添田千恵子さんのピアノ伴奏で歌を歌いました。

中﨑町長の挨拶

皆さんこんにちは。今、佐藤会長からお話がありましたが、8年前の吉田邸焼失の前日、まだ町長になってはおりませんでしたが中島先生の講演を図書館で聞いておりました。本日何かのご縁でこの場に呼ばれ、再び先生のお話が聞けることを大変うれしく思っております。 

再建後の吉田邸

ご存知のように旧吉田邸は3月26日に国の、本当にお忙しい方々をお招きして落成式を行うことができました。以来、今日現在までの来園者数は7万7千人になろうかと思います。このようにたくさんの方々が吉田邸を訪れるということは、建物が新しいだけでなく、吉田茂さんがもつ、何か私たちを惹きつけるもの、日本中の人々がもつ尊敬と憧れの両方の思いがこのようになっているのだと思います。会場にいらっしゃる皆様方も同じようにこのような思いをもっていただければと思います。ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
(写真は再建された吉田邸)

中島信吾氏の講演要旨 

    吉田茂元首相  明治11年(1878)~昭和42年(1967)
      1946~ 第一次吉田内閣、 1948~ 第二次吉田内閣、
      1949~ 第三次吉田内閣、 1952~ 第四次吉田内閣、 
      1953~ 第五次吉田内閣 

       1964   大勲位菊花大綬章を授与 
      1967   死去。 従一位大勲位菊花章頸飾を授与 

先ほどご紹介に預かりました中島と申します。 私は大磯生まれであり、小中学校を大磯で過ごしました。さまざまな地域で講演をすることがあるのですけれど、吉田茂についても2007年の大磯プリンスホテルで行われました吉田茂没後40周年の記念シンポジウムではパネリストとして参加しました。その2年後に大磯町の図書館で2回にわたり「大磯町と日本の近現代」という題で明治以降の日本の歴史と大磯との関連を中心にお話をしました。

しかし、2回目のお話が終わった次の日の朝、「吉田邸が燃えている」と聞きました。そのときの衝撃は生涯忘れられないものでした。 私の専門は戦後史、今日の主題に大きく関係するものです。 戦後長らく大磯といえば吉田さんのことを指していました。政界では「大磯詣で」という言葉もあったほどです。当時の政治家の回想録を見ますと、吉田さんのことが「大磯のじいさん」と名前が出てきます。吉田茂

大磯と吉田茂の接点は間違いなく吉田邸であります。別荘ではなく自分の住む場所でありました。昭和40年(1965)に大磯町に名誉町民制度ができ、吉田さんは最初の名誉町民になりました。本日は大磯との接点ということに軸をおいてお話をさせていただきたいと思います。吉田さんは大磯町に多くの足跡をのこしています。 (写真右、自邸を背景に、昭和34年頃)

吉田茂の評価

吉田茂の評価はいろいろありまして、退陣後10年して政治学者の高坂正堯(こうさかまさたか)氏が、日本が早く経済復興することができたのは、吉田茂の選択が正しかったからと初めて再評価をしました。第二次大戦を戦った連合国側とのサンフランシスコ講和条約は「寛大な講和」と言われ、彼の最大の仕事となりました。さまざまな評価があるとはいえ「大宰相」であったことに異論は少ないでしょう。

経済復興は優先しなければならない一方、独立した後の最大の問題は日本の安全をどう守っていくかというところにありました。日本だけではどうにもならない、当面の安全保障についてはアメリカに依存するしかないというのが吉田さんの考えで、日米安全保障条約にも調印しました。そして民主主義の時代にふさわしい新しい軍隊を作っていくべきだと、周囲の反対を押し切って警察予備隊をつくった。吉田さんはあの難しい時代だったからこそこの国が必要とした人物だったと思います。

政治の表舞台へ

吉田さんは戦前と戦後では大きくキャリアが違っています。戦前は外務省の官僚でした。戦後はアメリカに占領されて、その後独立国となって国際社会に復帰していこうという時期の日本の宰相でした。 外務省では本流を歩いてきたわけではない吉田さんが戦後の政治の表舞台にでるきっかけとなったのは何か?中島信吾講演

もともと彼は自由主義者で英国に親近感をもっていたが、日独伊三国同盟に反対したただ一人の大使だった。米英との戦争は避けなければいけないというときに駐日米国大使として赴任してきたのがジョセフ・グルーでした。
吉田は駐英大使を最後に外務省を退官しますが、その後もグルーとは家族ぐるみの付き合いを続け、精力的に戦争回避のための活動をします。 開戦後、グルーがアメリカへ帰った後に出版した「滞日10年」はベストセラーになりました。グルーが吉田たちとの交流で得た日本への見方はアメリカ政府が対日占領政策を立案するときにも生かされていきます。 (写真右は中島講師)

吉田は戦争が始まると、なんとしてでも早く終わらせようとことごとく時流に逆らって命を心配する状況にまで陥ったが、この愚直なまでの姿勢が戦後になって世の中が彼を必要とした大きな理由である。 戦後の新しい政治に軍という癌を取り除く必要があり、外交の経験がある人、戦争の片棒を担いでいない人を探す必要性があった。

「戦争で負けて外交で勝った歴史がある」とは吉田さんの言葉ですが、大勢に媚びようとしない彼の姿勢は戦後になっても変わりません。こうした吉田さんの毅然たる姿勢は、日本の尊厳を守るためにはむしろよかったのではないでしょうか。8千万の日本国民が人質になっているような状況で、総理大臣が頭を下げて歩いていたら日本人は卑屈にならざるを得なかったでしょう。

閉ざされた空間

吉田邸を語るに欠かせないのは庭園にある「七賢堂」であります。 最初は伊藤博文が尊敬する4人の明治維新の元勲 ― 岩倉具視、三条実美、木戸孝允、大久保利通 ― を祀るため滄浪閣に四賢堂を造りました。そして伊藤自身が祀られて五賢堂になり、吉田さんの死後西園寺公望もいれて七賢堂として祀られるようになりました。本邸が火事で焼失するまで西武鉄道が管理していたのですが、七賢堂は幸いにも災難を免れました。

吉田さんと伊藤公の命日が10月なので毎年10月に庭園で七賢堂祭をやっていました。私も吉田茂国際基金の方にお願いして、2度ほど中にいれていただいたことがあります。当時総理大臣だった小渕さんが来られたこともありました。 七賢堂祭で見た吉田庭園は本当に素晴らしいところでした。しかし、どんなに素晴らしくとも地元の人びとには「閉ざされた空間」でした。 しかし、昭和39年(1964)、吉田さんは栄えある勲章を受賞したとき大磯小学校生徒による鼓笛隊の演奏に感激のあまり涙を流していました。(写真右)
吉田鼓笛隊

また、吉田邸開園の時に開催された郷土資料館での特別展には吉田さんが寄贈したトロフィーや子供会に寄贈した旗が展示されていました。このように吉田さんと大磯町民との交流を示すものもあるので、これらを大切にしていただきたいと思います。
吉田さんは大磯名物「新杵」の虎子まんじゅうや「井上蒲鉾店」の蒲鉾が好物。「真壁豆腐店」の豆腐も好きだったようです。そして湯豆腐が大好きだったのものですから、講和条約締結のためにサンフランシスコへ行くときに、何とかサンフランシスコへ豆腐を持っていけないかとの依頼があったらしいのです。

吉田茂と大磯中学校

大磯中学校20年史によると、開校して間もないころ子供たちへのせめてもの贈り物として吉田さんに講演を依頼したところ快諾、24年(1949)6月に講演をされました。 「皆さん、戦いに敗れても心を落として決して卑屈になるな。これからの日本は文化国家として必ず立派な国となる。元気をだしてよく勉強してもらいたい。天下の大磯の名を辱めぬように」と。
 この意味は威張りなさいということではなく、大磯という素晴らしい場所に負けないように育ってほしいという狙いが込められていたのではないでしょうか。

また、大磯中学校創立10年史にも「所感と祝いの言葉」を寄せていました。 祝いの言葉とは言え7割がた現状の教育を憂う説教のようなものだった。 「今の教育はなっていない、中途半端な教育だ。実例としてイギリスではギリシャ語、ラテン語などを教養のひとつとして学ぶ。日本ではかっては漢籍があったはずだが、まことに寒心に堪えない」 と。しかし最後に、「戦争には敗れたが、短期間のうちに復興を成し遂げた日本人は真に偉大な国民である」と激励しています。

大磯の吉田茂を取り戻す 西小磯の人々

吉田邸と地域の人びととの距離が離れすぎている。焼失後、再建運動が始まってからもその距離感は感じていました。再建には吉田国際基金の人でさえ危ぶむ声があった。焼失して建物がなくなってもあそこに吉田茂という大人物がいて大きな足跡を残したことについては変わりはない。彼の魂はあそこにいるのだろうと私は信じています。いま現在、私は大磯町民ではありませんのでどうのこうの言えないのですが、これからは吉田さんと大磯の人々との精神的な距離を、より近づけることが大切なのではないかと思います。 (写真は訃報を聞いて弔問にきた近隣の住民)

吉田さんが亡くなって50年。日本が苦しかった時代になって吉田が大磯という町にさまざまなものを残していったということを知っていただきたい。忘れられたことも多い。大磯の吉田茂をとり戻す。 そういう存在になってほしい。もしかしたらそうなっているのかも知れません。大磯という町を語る上で吉田邸は欠くことができない。いま、そうであったならますますそのようになってほしいと思います。ありがとうございました。  ( 以下略)

写真は朝日新聞社発行のアサヒグラフ(昭和42年11月5日号)からの転載です。

5分間の休憩後、恒例の第2部、「百合道子コンサート」へ移る。
特別ゲスト出演:百合道子さん(ソプラノ)
添田千恵子さん(ピアノ伴奏)

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(文・佐藤邦康)

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